今日は生と死について書いてみる。
生と死のタイムライン
会社の人が亡くなった。
重要な役職で、創業当初から活躍されていた方だったが、病に倒れ休職中にそのまま亡くなった。まだ49歳という若さだった。
非常に信望に厚い人だったようで社内外のあらゆる人からの追悼コメントがFacebookのタイムラインに流れていった。
「一緒に仕事をさせてもらって嬉しかったです。ご冥福をお祈りします」
「様々なアドバイスをもらったこと憶えています。これからも大切に生きていきます」
「R.I.P」 ※Rest In Peace=安らかにお眠りくださいの意
僕自身は直接関わったことはなかったけれど、一緒に仕事をしたらきっと素晴らしい経験をさせてもらえたんだろうなと想像する。そして、そう思われる人生はきっと素敵だったんだろうなとも。
ご冥福をお祈りいたします。どうぞ安らかにお眠りください。
ちょうど同じころ、僕は38歳の誕生日を迎えた。こちらもそういう文化だということで(※)、Facebook上でたくさんのお祝いメッセージをいただき、「お誕生日おめでとう」がタイムラインを流れていった。
※インターネット系の会社にいると、社内外のあらゆる人と、仕事やらセミナーやらで関わった人はすべてSNSで繋がりまくるという文化の中にいます。
同じタイミングで死に関するメッセージと、生に関するメッセージがあふれかえるタイムラインを目にすることになり、自然、人間というのは生きている間も、死ぬときも、他の人からの想いで支えられているんだなと思うことになった。
みんな死ぬ、そのとき人にどう思われたいか
「みんな死ぬ」
「誰だっていつかは死ぬんだ」-村上春樹「羊をめぐる冒険」-
村上春樹の作品「羊をめぐる冒険」で、主人公「僕」と対面した「先生の秘書」が最初に口にした印象的なセリフ。僕はこのセリフが大好きだ。
不確実な世の中で「人がいつか死ぬ」ということだけは絶対的な真理で議論の余地がないことと、よく「メメント・モリ(死を思え)」と言われるように、この言葉を思い返すことで「今をもっとちゃんと生きよう」と強く思えることから大事にしている言葉だ。
座右の書「7つの習慣」でも、第二の習慣「目的を持って始める」の章で「自分の葬儀を想像しなさい」という話が出てくる。
- 三年後の自分の葬式を想像しなさい
- 祭壇には自分の写真、会場には自分のために集まった人々
- その人たちに自分の人生について何と言ってほしいか
- どういう人だったと言ってほしいか
- 自分の人格のどこを見てほしかったか、どういう貢献や業績を見てほしかった
僕自身、想像してみた。
あまり悲しいお葬式はいやだな。できればしょうもないエピソードとか思い出して笑ったりしてほしくて、「しょうのない人だったな」とか言われながら、でもやっぱり最後には「こんなことをしてくれた」「あんなことをしてくれた」「人に誠実に生きている人だった」と思われたいんだろな。
とこんな感じで想像すると、では死んだときにそう思われるために今日、今からどうすればいいか、を直結させて考えることができる。
死を思うこと。その時、人にどういう人間だったと思われたいかを想像すること。これが今の自分を正すことに繋がる。人生に迷いが生じたときは、何度でもこの「自分のお葬式に立ち戻って考える」という方法をとっていこうと思う。
人のために生きること、それが人生
しかし、こうして考えていくと、結局人生というのは「人のためになることをするためにある」んだということがよくわかる。日々、人のためにできることをやっていき、他の人の中に自分の思い出がたまっていき、それが自分の人生や人格となっていく。
「そんなのやだもんね、僕は100%自分のためだけに生きるんだもんね」という姿勢で生きることももちろん可能だが、おそらくそうして生きて死んでいく人の人生はとても味気ないものになってしまうだろう。(その人の葬式を想像すれば明らかだ)
ここで誤解がないようにしたいのは、人のために生きるといっても、何も自分が好きなことをできないという話じゃないということ。
サッカーの本田圭祐選手や、野球の田中将大選手のように、本当に自分が好きなことを突き詰めていくことで、自分と言う人間の価値を最大限発揮した姿というのは、きっと誰かのためになることをしているはずだから。
自分が本気で好きなことをやりながら、最後は人に貢献できる人間になるように日々を生きていくこと。それが人生ってもんなんだろうなと。
それでは、また。
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