【誕生日】41歳だけに「良い(41)」状態について考えた。

抱負・ふりかえり
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41歳になった

誕生日を迎えて41歳になった。

 

ちょうど2年前、39歳の誕生日にこんな記事を書いている。

※なぜか40歳の去年は記事を書いていないです。いろいろ迷いがあった時期だからかな。

書き出しはこんな感じ。

もういいオッサンなのでさほど感慨もなかったのですが、Facebookでおめでとう、会社でおめでとう、家族からおめでとうと言われている間に、すっかりおめでたい気持ちになっちゃいました。(ほんとおめでたいですね)

しかしこの歳になって、「おめでとう」「おめでとう」言われると、すんごく嬉しいと同時に何やら申し訳ないような、後ろ暗いような気持ちがしてくるものですね。なんででしょうね。

今回の誕生日も同じ気持ち。いや、40代に入った分さらにこの思いが強まった感じ。

記事ではそのあとHOME MADE 家族の「サンキュー!!」と、歌詞にある「アプリシエーション(appreciation)」という言葉の意味を絡ませ、最終的にこんな結論に至る。

 

感謝とは「してもらったこと」(=おめでとうと言ってもらえたこと)をありがたいと思う気持ちではなく、「もっと本質的なこと」(=こういう日におめでとうと言ってくれるような人たちに常に支えられて生きているということ)をありがたいと思う気持ちなんじゃないかと。

いいこと書いてる(笑)

でも、ほんとに思う。

自分がこの年まで「生きてきた」ことがおめでたいのではなく、素晴らしい人たちに支えられてこの年まで「生かされている」ことがおめでたいのだと。

 

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41歳の誕生日はこんな風に過ごした

誕生日は土曜だったため、前日の金曜である昨日、会社の同じチームや部の人たちに「おめでとう」と言ってもらえた。

異動しているから2年前とは違う部門の同僚たちだけれど、同じように言ってもらえたことが嬉しかった。

でも本当におめでたいのは、そうした仲間たちと普段から良い仕事ができているから、良い関係性が築けていて、だから誕生日におめでとうを言ってもらえる。

そのこと自体がおめでたいのだ。

誕生日当日の今日は家族と久しぶりに電車で新宿まで行って、「バルバッコア」でシュラスコを食べて、新宿御苑を散歩した。

地元に戻ってシャトレーゼのケーキを買って、家に帰って「おめでとう」を言ってもらいながら皆で食べた。

普段より少し気の利いたことをしただけの土曜日だったけれど、とても平和な一日だった。

でも本当におめでたいのは、そうした家族と普段から良い家庭を作れていて、良い関係性が築けていて、だからこんな平和な一日を過ごさせてもらえる。

そのこと自体がおめでたいのだ。

あらためて、そんなことを思った2日間だった。

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「良い」という状態を大切にする

すごくなくていい。

特別じゃなくていい。

普通に「良い」状態が一番大事なんだと思えるようになってきた。

良い会話、良い仕事、良い関係、良い毎日。

その継続が結果的に「すごい」何かや、「特別」な何かを生み出す。

そんな気がする。

肩の力を抜く。

何かに囚われすぎることなく、しなやかに生きる。

人に対してもっともっと寛容になる。

そして、結局その方がよい結果を生む。

柔よく剛を制す。

北風と太陽。

41歳の誕生日はそんなことを考えた。

 

それでは、また。

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