すべては「始める」ことから「始まる」

すべては「始める」ことから「始まる」

ブログが書けなくなった。

この春からのことなので、もうかれこれ4か月になる。5年前にブログを開始して以来、ときどきスランプに陥って間をあけてしまうことはあっても、ここまでのブランクは初めてだ。

理由はなんとなくわかっている。

1つは、仕事が忙しくなったことがある。

久しぶりに管理職になり、マネジメントを担当することになった。プレイヤーとして自分の仕事だけを全うする働き方から、チームとしての成果も考える役割になったことで、自然に仕事量が増えて、ブログを書く時間が確保しづらくなった。

しかしそんなのは単なる言い訳だ。

時間だけの問題ならば、早起きするなり、あらかじめスケジュールを抑えておくなり、いくらでも方法はある。単にタイム・マネジメントの話ならば、さすがに4か月も書けない理由にはならない。

もっと深刻な理由があった。

それは「情報発信する気力がなくなった」ということだ。しばらくは認める気にはなれなかった。認めたら負けだと思っていた。思いだけで始めて、続けてきたブログだ。その思いがなくなったら、今後いっさい書けなくなってしまう恐れを感じていた。

なぜ「情報発信したい」という気持ちがなくなってしまったのか。

インプットが足りていないのか。忙しくて頭が仕事モードから切り替わらなくなってしまったのか。いろいろ考えてはみたものの、理由はわからなかった。

理由のわからない敗北感を味わっていた。

この5年間続けてきた習慣が途切れてしまった、というだけの問題ではない。「ブロガー」という、僕のアイデンティティ、人格の一部が失われてしまったのだ。気持ち的には最悪だった。自分の中の重要な知的生産活動が継続不可能になってしまったのだ。

人間、何かを喪失すると、それがまだ失われていない時のことを思い出すものだ。

かつての僕は常にアウトプットしたい気持ちでいっぱいだった。

毎朝起きるなりすぐにノートに思いつきを書き殴った(モーニングページという習慣だ)。そしてTwitterで四六時中つぶやいていた。これもその瞬間パッと思ったことをただただアウトプットしていた。そして、それらのメモやつぶやきがたまってくると、自然にブログ記事になった。

アイデアが枯渇する前に、きちんとインプットもできていた。

月に1~2回は街を散歩して、自分の想像力・創造力を膨らませた(アーティストデートという習慣だ)。そして、読書からも人の話からも、常に自分の頭の中の情報ストックに結び付けて、インプットのための情報貯金を殖やしていた。

そんな風に間断なくインプットとアウトプットを繰り返していた、栄光の日々。

その日々を僕は永遠に失ってしまったのだ。抜け殻。洞窟。空き家。そんな感じだった。

このまま書けなくなるのではないか。

世の中のブロガーの95%は「続けられないことで失敗する」という。僕もその95%に入ってしまうのか。そんな思いに暮れているときにふと転機はやってきた。

それは仕事で行った福岡出張のときのことだった。

翌日の仕事に向けて、前日の夜に博多の街に降り立って、中州と呼ばれている繁華街をプラプラと散歩した。屋台ラーメンを食べたあと、橋の近くでストリートミュージシャンが歌を歌っていた。

20代前半の女性ボーカリストだった。

ギターを弾くでもなく、スピーカーから流れる音楽に合わせて歌だけで勝負していた。なんてことはない歌だったし、なんてことはないボーカルだった。ただ、その歌詞が妙に胸にグサグサと刺さってきた。

「夢は誰のものでもない、僕のものなんだ」

「誰に何を言われてもかまわない」

「僕は僕の信じる道を進めばいいんだ」

そんな歌詞だった。

ありふれたメッセージだったけれど、その時の僕が欲していたメッセージだったのか。それとも博多の街が発するパワーなのか。いずれにしても、僕の中で久しぶりに何かが発動するのがわかった。

僕はポケットに入れていた愛用のA6ノートとJETSTREAMのボールペンを取り出した。

そして「いま、僕は誰の人生を生きているか?」と書いた。そして「いま、僕は成長できているか?」と書いた。「未来に投資できているか?」「日々、自分が本当にやり遂げたいことを優先できているか?」と書き殴っていった。

そう、自然に「モーニングページ」を始めていたのだ。

「自分が生きている間に、成し遂げたいことは何か?」

「変態的なまでに自分であり続けることで得られることは何か?」

「誰かに自分を変えられてしまう前に、自分で自分を変えられるか?」

「ぐちゃぐちゃの自分からしか生まれない、自分だけの価値は何か?」

人からどう思われようと構わない、という気持ちで書くのが「モーニングページ」のルールだ。

そして、書けば書くほど、頭の中であらゆる情報が繋がっていく。情報の「上澄み」を吐き出すことで、頭が整理され、創造性が解放されるのだ。

その状態で、今度は博多の街を、気持ち新たに歩き始めた。

夜に踊るネオンサインと空に浮かぶ月が、川の水面に移って美しかった。道行く人たちにも、それぞれの人生を感じた。この街で生まれたら。この街で育ったら。僕の人生はどうだったかなと考えた。

今度は自然に「アーティストデート」を開始していたのだ。

リラックスして今この瞬間に集中することで、見えてくるものがある。

心が落ち着いて、自由な発想が生まれるにつけて、ここ最近の自分がいかに狭い世界にとらわれていたか、いかに近視眼的に物事を眺めていたかを思い知らされた。

そして、以前通っていたライティング教室で習った一番の教えを思い出した。

「文章が上手になりたかったら、方法は1つ。それは、書くことだ」

そうか。

僕がブログを「書けなかった」理由は、忙しかったからでも、気力がなかったからでもない。

「書かなかった」からだ。

ノートを書き始めれば、文章は生まれる。街を歩けば、アイデアも生まれる。生まれたアイデアをとにかく書いていく。結果的にそれが誰かにとって意味あるものになったら、それがブログ記事になる。ただそれだけのことだ。大げさに考えるから書けなくなる。シンプルに考えればいいんだ。

人生のほとんどのことは「始める」ことで「始まる」と思う。

文章も「書く」ことで「書けるようになる」。「なりたい」自分になるために必要なたった1つのことは、「なりたい自分になるための一番小さな習慣を、今この瞬間に始めること」だ。

昔、よく上司に「いいからやれよ」と言われたことを思い出した。

新しく仕事を任されたときに、「なぜやるのか」や「どこから着手するか」を考え始めたり、そのための議論を始めようとする僕に、「四の五の言わずにいいからやれ」という意味で言われた言葉だ。

当時はひどいことを言うなあ……と思ったものだ。

こっちの考えも聞かないで、会社組織の都合だけを押し付けて、説明責任を果たしていないじゃないかと思った。でも今は少しだけその意味がわかる気がする。いいから、やればいいんだ。

僕はあらためて誓おうと思う。

頭の中のもやもやをとにかくアウトプットし続ける。メモでもTwitterでもスケッチでもなんでもいい。とにかくアウトプットし続ければ、良いインプットを生み、良いアウトプットに繋がる。それがブログ記事になろうが、なるまいが、どっちでもいい。

この習慣をぐるぐる、ぐるぐると回し続けた先に、まだ見ぬ本当の自分がいると信じて。それしか僕が僕であることを続ける方法はないのだから。

忙しさに負けず。時間に負けず。人目にも負けない

自分の人生を切り拓くための一番小さな基本動作を、僕は渾身の思いを込めて守り抜くことにする。

ということで、4か月ぶりに記事を書けたこのブログを、今後ともよろしくお願いします。

それでは、また。

創造性を解放する方法カテゴリの最新記事