地域のゴミ拾いと、人生の「贖罪」

正しく生きる方法
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町内会のゴミ拾いに参加した。

これまでも町内会でゴミ拾いをしているという話は聞いていたが、毎回タイミングが合なかったり、うっかり寝坊してしまったりしていて、今回が初参加となった。

日曜日の朝8時からということで、正直億劫だった。

だがその日は、日中も町内会のイベントに参加する予定だったため、朝だけ不参加というわけにもいかない。

僕か奥さんどちらかが子ども二人を連れていくことになり、すったもんだの話し合いの果てに、結局、僕が行くことになったのだった。

軍手とトングをもって外に出ると、11月の寒い朝が待ち構えていた。

子どもたちは何やら楽しそうに、行く道すがらのゴミも拾い始めている。

集合場所の公園に行くと、同じマンションの人やご近所さんがゴミ拾いを始めていて、僕たち三人もそこに加わった。

上の娘は同じ小学校の友だちと一緒に行動し始めたので、僕は下の息子と二人でゴミ拾いをすることになった。

まだ3歳の彼にとって、トングでゴミ拾いをするのはこれが初めてだ。

なかなかうまく挟めず、苦戦するが、あえて手は出さずに見守る。

初めはぜんぜん掴めずに、いったん手で拾って、トングに挟んで、ゴミ袋に入れたりしていたが、徐々にトングだけでゴミ袋まで持ってこれるようになる。

人間、どんなことも習熟するものだ。

「パパ、たのしいね」といいながらタバコの吸い殻を拾う3歳の息子の背中を見ながら、これを捨てたのは大人なんだな、と考える。

何を思って捨てたのか。

その後、自分が捨てたゴミがどうなると思って捨てたのだろうか。

そう思いながら、同時に、ではそういう自分は今までゴミを捨てたことはなかっただろうか、と考えた。

若かりし頃にタバコを吸っていたときに、イキがって吸い殻をポイ捨てしたことはなかっただろうか。

もしかしたら、いまこうして子どもと一緒にゴミ拾いをしているのはそんなこれまでの人生で犯してきた間違いの贖罪なのかもしれない。

そう考えると、同じ世界の中で時間を違えて、人は迷惑をかけたり、かけられたり、許したり、許されたりしている生き物なのかもしれない。

地域のゴミ拾いは、そんなことを考えさせられるイベントだった。

それでは、また。

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