「子どもに凌駕される日」を心待ちにしている

子どもと育っていく
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僕には2人の子どもがいる。6歳の娘と、2歳の息子だ。

 

娘の方は今年、小学校に上がる。ここ最近はその準備に大忙し。入学式に着る洋服を選んだり、学習机を買いに行ったり。

いよいよもって可愛い盛りの娘だが、1つだけ心配なことがある。それは「ふざけ過ぎて、まったく言うことを聞かない時がある」ことだ。

 

なんだ、そんなことか。そう思われるかもしれない。

だが、なかなかどうして、娘の「言うことを聞かないレベル」は本当に度を超えているときがあるのだ。

 

まず多いのが「食事中に必ずウロウロし始める」ことだ。

特に用事があるわけではない。なんとなくフラフラ室内を歩き出すのだ。テレビの前まで行ってぼんやりと眺めていると思ったら、いつの間にかソファに寝っ転がってゴロゴロしたりしている。そこに奥さんの雷が落ちる。

 

「何事も言われるまでやらない」というのも常習犯だ。

着替え、歯磨き、幼稚園の準備、帰宅後の手洗い・うがい、オモチャの片づけ。とにかく言われるまで、自分からやることはない。いや、正確には言われてもやらない。奥さんの証言によるとだいたい10回くらい言って、ようやく動き出すくらいのペースとのことだ。

 

そのくせ、自分がやりたいことへのコミットメントは並大抵ではない。

突然歌い出す。踊り出す。アイドルよろしく歌って踊り出して、止まらなくなる。おやつへの執着心も相当なもので、1日の中で1回でも多く、おやつを食べる機会を得ようと、事あるごとに「おやつ、おやつ」言ってくる。

 

やらんでいいことをやりたがり、面倒を増やすことも多い。

キッチンの高い台の上で自分で飲み物を注ぎたがって、コップを落として割る。料理の難しい工程を手伝いたがって、卵を落として割る。

 

やって欲しいことは言うことを聞かない。やらんでいいことはなかなかやめない。

家の中でふざけている分にはいいが、公園で遊んでいるときや、外出しているときなどにも言うことを聞かないことがあり、本当に危ないこともある。

言ってもやめないどころか、わりと本気で怒ってもやめない。

甘やかしてきたツケだけなのだろうか。それとも僕らが舐められているのだろうか。ほとほと疲れた奥さんが「なんで、あの子はこうなんだろう……」と呟く。

「そうだな……」と僕が相づちを打つ。

でも本当は、この状態を生んだ理由を、僕は知っている。僕だけじゃない。おそらく、奥さんもその原因となった張本人を知っているはずだ。

 

他でもない、僕である。

 

世のイクメン(相対的に育児に積極的な姿勢を持っている父親のこと)、イケダン(奥さんやその友人から見てイケてる旦那さんのこと)と異なり、僕は家のことや子供のことについて、ほとんど自分の考えを言わないタイプだ。

割と奥さんに任せきりである。

任せすぎて、奥さんに怒られているくらい、ああしたい、こうしたいとは言わない。無責任だと誤解されるかもしれないが、あまり日常的な細かいところで、自分が良いアイデアを持ち合わせていないから、口出ししないようにしているだけだ。

 

そのため、子どもの教育方針や育児に関する持論なども、ほとんどないに等しいが、唯一、僕が父親として、子どもたちに伝えたいと思って、父親をやっているテーマがある。たった1つだけである。

それは「子どもたちの創造性だけは育んであげたい」という思いである。

 

「創造性」とは、一般的に新規性・独自性の高い発想や創作を生み出すためのスキルやセンスのことを指す。と言うと、まるで「芸術家を目指してほしい」とか、「革新的な起業家になってほしい」とか、思っていると受け取られそうだが、僕の思いはもう少しささやかなものだ。

シンプルに表現すると、「自分の頭で考えて、自分の人生を切り拓ける人になってほしい」という思いだ。その意味で、子どもに持ってほしい「創造性」は、スキルやセンスというより「考える習慣」くらいのイメージで考えている。

 

何もお金持ちにならなくてもいい。特段有名になる必要もない。

ただ、人生を自分らしく生きることで、自分らしい幸せを毎日感じられる人になって欲しいと思っているだけだ。

世の中的な成功ではなく、個人的な成功を収めてほしい。

そのために必要になるのは、「自分の中にある、心からやりたいことに気づけること」や、「内から込み上げる思いを、素直に表明すること」だと思っている。

 

そんな思いを持ちながら、子どもたちと接するようにしてきた。

昔のビデオなんかを見返してみると、小さな娘が「やりたい気持ち」を素直に表現している場面で、僕は決まって「いいぞ、いいぞ」「それが楽しいんだね」なんて声をかけている。

その意味では、彼女自身は完全に期待通りに育ってくれているのだ。

いやむしろ、期待以上に育ってくれていると言ってもいい。なぜならば、たかが親の良識や、常識や、世間体や、認識の範囲内に収まるような「創造性」では、21世紀を生き抜いていくうえで心もとない。

 

僕らは前世代の人間として、彼女の創造性に振り回されればいいのだ。

あたふたして、イライラして、怒ったり、なだめすかしたりしながらも、なんとか対応しようとする、僕らを、彼女は悠々と凌駕していけばいいのだ。そう思うと気が楽になってきた。

 

娘は今夜も、その創造性をいかんなく発揮して生きている。

この文章を書いている横でも、夜21時を過ぎたというのに、大きな声で歌を歌っている。見れば「3歳のうたとおはなし」という本を読みながら(6歳なのに)、お気に入りの歌をかたっぱしから歌っているようだ。

「おなかのへるうた」「とんでったバナナ」「ふしぎなポケット」「ドロップスのうた」。

「食いしん坊な歌」ばかりだ。

いかにも彼女らしくて笑ってしまう。「ほら、こんな時間だから、そろそろお歌は終わりだよ」と言っても聞きやしない。

 

彼女はこれからもどんどん手ごわくなるだろう。

僕らは、取っ組み合いながら、精いっぱい応援をしてあげたいと思う。

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