兵庫県議員の野々村竜太郎氏(47)が号泣会見で話題だ。
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正直、自分も初めて見たときには笑ってしまった。
すごい。こんな人がいるんだな。ましてや公職たる政治家として存在しているんだな、と。同時に笑ってしまいながらも何か怖れにも似た気持ちを抱いた。
その後の展開はすぐ想像できた。会見の様子が繰り返しワイドショーで取り上げられ、YouTubeには動画がアップされまくられ、お笑い芸人にはマネをされ、会社や家庭でも「とんでもないキャラがあらわれた」という盛り上がりを見せた。
それらの起こったことを否定するつもりはない。こんなことがあったら全て起こるべくして起こっていることだと思う。でもなんだろう。どうしてもぬぐえないこの違和感は。
それはそうやって「明らかにスタンダードから外れた人」をつかまえて、「こいつはおかしいよね」という共通認識を持つことで僕たちは安心を得ようとしているんじゃないだろうか、という疑念から来るのかもしれないと思った。
「自分はこういう人をおかしいと思う」という気持ちでもって、「皆もそう思っている」ということを確認することで「だから自分はおかしくない」「マトモだ」という安心を得ようとしているのではないだろうか。
繰り返すけれど、それが悪いという意味ではなく、そうじゃないかなと思った時点から、自分は彼のことを嘲笑の対象にすることができなくなったということだ。
それよりも、もし自分が彼と直接知りあえたら、彼に何ができただろうと考える方がよっぽど自分らしいと思った。もし彼が自分の同級生だったら。もし彼が自分の同僚だったら。もし彼が自分の家族や親戚だったら。きっとただ笑って済ませることはないだろうということを想像した。
人間をあきらめたくない。どんな人にもその人しかできないことがあると思う。そうした「その人ならではの強み」を発揮できるかどうかは最終的には本人次第だとしても、それをきちんと発揮してもらうようにサポートすることは周囲の人にもできるんじゃないかということだ。
今回のことを嘲笑した終わらせることは簡単だ。でも、もしかしたらそういった姿勢が、ほかの嘲笑では済ませられない数々の事件を生んでいる土壌になっているとしたら。そうした事件を生んでいる遠因がこうした人を嘲笑して終わらせてしまう時代の空気そのものにあるとしたら。
そこまで想像したときに、僕らは本当に今回の件を笑って済ませていていいんだろうか。
いつもの綺麗事100%な話であることは自覚したうえで、あえて言葉として思ったことを記事にしてみた。
それでは、また。
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