今朝、僕の会社の同期が亡くなった。
東京の同期の女のコが電話をしてきて知った。
僕はといえば朝から伊丹十三の「マルサの女」を観てヘラヘラしてるところだった。画面の宮本信子を観ながら、呆然と耳から入る訃報を聞いていた。
いいやつだった。直接会ったことは数回しかないけれど、親しい先輩や同期からの話で聞いていた。決して目立つタイプではなかったけれど、頭が良く、人の相談とかに乗ってあげるのがうまくて、頼りになる男だったとのことだ。来年関東に戻ったら、本格的に連絡を取り始めようと思っていた人間の一人だった。
電話してきた女のコは少し泣いていた。そのあと同じ部署の先輩にも連絡を取ると、動揺を隠しきれない様子だった。大阪の同期も泣きながら連絡してきた。
でも、僕はうまく悲しむことができない。
四国の同期二人に事務的に連絡をしたあとは、またぼんやりと「マルサの女」を最後まで観て、洗濯をして、ベランダに干して、今に至る。
死んでしまった同期を思うと、死ななかった自分に思いが行く。「なぜあいつは死んだのだろう」と思うと同時に「なぜ僕は死ななかったのだろう」と思う。
病気になったのは同期の方だから当たり前なんだけど、考えずにはいられない。果たして彼よりも生きている価値がある男なんだろうか、と。
そんなことを考えてるから、うまく悲しめないんだろう。
実はこれは暗いニュースが流れるたびに、思っていることだ。小さな子供が親の不注意で死んだ事件や、外国の罪も無い人がテロで死んでいくニュースが流れるたびに思っている。
僕は果たして、死んだ子供よりも長く生きている価値がある男だろうか。死んだ数十人の人よりも生きている価値がある男だろうか。
悲しんでいるわけじゃない。ひたすら考えている。そして、きまって最後には同じ結論に至る。
「でも僕は今生きている。生かされている。だからちゃんと今日からまた生きていくしかない。」
土曜日の麗らかな午後に、コメントしづらい日記でごめんなさい。さて、「マルサの女2」でも観るかな。
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