わが子に接しているときの自分が好きだ
「良い子だね」と頭をなでてあげる。
何か失敗しても「大丈夫だよ」と言ってあげられる。
「愛しているよ」なんて言葉も何のてらいもなく言えてしまう。
また、ときどき何気なく子どもに向けて言った自分の言葉に自分でびっくりするときがある。
朝、保育園に向かうため家から外に出た瞬間に
「ほら、今日も君のために世界はこんなに素晴らしいよ」
と言っては、きっと自分のためにも素晴らしいんだろうと思い直す。
保育園に向かう途中、はしゃいで転んで泣いた娘に
「一生懸命走って転んだんだからそりゃあ痛いよね。でもきっと何かためになったはずだよ」
と言っては、自分の仕事の失態を思い出す。
公園の砂場で友だちと遊ぶ娘に
「お友だちにありがとうは?」「お友だちにごめんねは?」「『ありがとう』と、『ごめんね』がちゃんと言えると人生はとっても素敵だよ」
と言っては、じゃあ自分はできているのかと自問する。
一緒に家で遊んでいるときに
「君は人生全部で何を表現しちゃうのかな?」
と聞いてみては、じゃあ自分は何を表現するんだろうと想像してみる。
子どもに接している時の自分は100%誠実だ
子どもに話しかけているときの自分は、公正で正直だ。
きっと僕らは誰もが本質的に真っ直ぐな心を持っている。良心とか誠実さとか、そういったものだ。
相手が子どもの場合、それが100%発揮される。
でも、相手が大人になるとなかなか発揮されない。なぜだろうか。
きっと照れや見栄、作ってしまったキャラクターなどの「世間体」とか「大人の常識」に邪魔されるからじゃないだろうか。
「そんなことを言ったら恥ずかしい」「自分はそういうキャラじゃない」といった気持ちが先に立つ。
もしくはもっと見当違いな理由として「そういった良心や誠実さを見せることは『負ける』ことだ」みたいな気持ちもあるのかもしれない。
子どもに話しかける時の自分を大切にしよう
相手が大人であろうと、同じように100%誠実な自分で接していきたい。
本質的な良心や誠実さを発揮し続ける方が、それを包み隠すよりもきっと素敵な生き方なはずだ。
簡単なことじゃない。でも明日から日々心がけよう。
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