どんどん、とってん、どんとてとん。
どんどん、とってん、どんとてとん。
さっこら、ちょいわやっせー。
陽が暮れかけた地方都市の目抜き通りを、太鼓の音と独特の掛け声ともに、和装姿の踊り手たちが整然と進んでくる。
踊り手たちは鳥が羽ばたくような仕草で踊り、太鼓や笛を鳴らす人たちも同じ動きを取り入れながら、全体としてパレードの様相を呈している。一糸乱れぬ、美しい動きだ。
今日は2018年8月1日。
東北地方を代表する祭りの1つである、盛岡さんさ踊りの初日だった。
盛岡に来たのは今回が初めてだ。
旅行ではなく、出張だ。たまたま出張期間の最終日と、この祭りの初日が重なったので、せっかくなので関東に戻る前に少しだけ見に来たというわけだ。
実際にこの街に来るまで、僕が盛岡について知っていることはほとんどなかった。
東北地方の都市であること。たしか岩手県の県庁所在地であること。わんこそばが有名なこと。冷麺とかじゃじゃ麺もあること。ぶっちゃけ、それくらいだった。
そのため今回の出張は正直言って、なにも期待していなかった。
名物料理のいくつかを食べたら、あとは仕事に集中して、任務が終わったら速やかに関東に戻る。それくらいに考えていた。(そもそも出張とはそういうものだが)
街についてからもこのテンションは変わらなかった。
到着したのは夜だったこともあり、閉店しているお店が軒を並べるJR盛岡駅前を抜け、地味な川にかかった大げさな橋を渡り、中心部のわりには盛り上がりに欠けるアーケード街を通ってホテルに向かった。
さんさ踊りというお祭りがあることも、盛岡に着いてから知った。
街のあちこちに看板が出ていたので、スマホで検索してみた。「東北三大祭り」には入っていないけれど「東北五大祭り(もしくは六大祭り)と標ぼうしてそこに食い込もうとしていることや、「世界一の太鼓パレード」という旗印を掲げていることなどがわかった。
「●大祭り」になんとか入れてもらおうとしていることや、世界一の太鼓パレードという押し出し方は、なんとも微笑ましいと思った。そもそも世界にどれだけ太鼓パレードがあるのか……。でも期待値は上がらなかった。盛岡への期待値の低さに引っ張られていたのだと思う。一応、滞在最終日に見れないこともないけれど、まあ、いいかな。それくらいに思っていた。
しかし、滞在しているうちに、僕の心に徐々に変化が起こってきたのがわかった。
名物を食べながら、仕事をしながら、一日、二日と過ごすうちに、徐々にこの街を好きになり始めている自分がいた。
「地味な川」は、北上川という一級河川だと知った。
盛岡のほか、流域には花巻、平泉、宮城県石巻などがあり、古くは奥州藤原氏の栄華を支え、宮沢賢治や石川啄木などの作品にも取り上げられた。勾配の低さから流れがゆったりとしていて、しばらく眺めていると、なんとも心が落ち着いてくる川であることがわかった。
「大げさな橋」は、開運橋というなんともめでたい名前であることを知った。
夜はライトアップがされ、道行く人を楽しませる橋であることがわかった。別名を「二度泣き橋」というらしい。盛岡に初めて来た人が「遠くに来てしまった」と泣き、盛岡を去るときに「離れたくない」と泣くという逸話からつけられたという。少しだけ、わかる気がした。
「盛り上がりに欠けるアーケード街」は、騒がしくなくて一人静かに過ごすにはもってこいであることがわかった。冷麺目当てで入った焼肉屋で、一人、人生のことを考えてしまったエピソードは、別の記事に書いたとおりだ。
そんな中で迎えた、出張最終日にして、さんさ踊りの初日。
想定以上に早く仕事を切り上げられることになった。偶然来た盛岡で、偶然1日だけ日程が重なったこの街一番の祭り開始時刻に、偶然間に合うように仕事を終えることができた。盛岡を好きになるにつれ、さんさ踊りへの期待値も上がっていたこともあり、これも何かの縁と出かけることにしたのだった。
街のメインストリートの両側を埋め尽くす、人、人、人だった。
この街にこんなに人がいたのかと驚いた。僕は岩手銀行の向かい側の歩道に立って観ることにした。開始時間になり、パレードが始まった。
どんどん、とってん、どんとてとん。
どんどん、とってん、どんとてとん。
さっこら、ちょいわやっせー。
次々にやってくる、踊り手、太鼓、笛の群れ。
美しく踊りながらも、かなりのテンポで前進するパレードなので、続々と次の集団(班、というらしい)がやってくる。独特の掛け声は「幸運は呼べばやってくる」という意味だ。
想像以上の壮麗さに圧倒されている自分がいた。
時間はすでに夕暮れ時で、やがてその陽が沈んだ。日没後の数十分間、太陽の光が薄く残って景色がオレンジ色に染まる時間帯がやってきた。
一般に「マジックアワー」とか「ゴールデンアワー」と呼ばれる時間帯だ。
映画「君の名は。」では、「黄昏時」「誰そ彼」「逢魔が時」として、「この世ならざるものと遭遇する時間帯」と紹介された。そのためだろうか、僕の中で何かにアクセスする感覚があった。
どんどん、とってん、どんとてとん。
どんどん、とってん、どんとてとん。
さっこら、ちょいわやっせー。
どんどん、とってん、どんとてとん。
どんどん、とってん、どんとてとん。
さっこら、ちょいわやっせー。
この踊っている人たちも、沿道で観覧している人たちも、一人ひとりの人生がある。
それぞれに毎日の生活があり、それぞれの日常的な喜びを味わいながら、また時にはそれぞれの悲しい思いをしながら、明日からの日々を生きていくのだろう。そんな人たちがこの瞬間、ここにいて、1つのお祭りを一緒に観ている。
僕はたぶん、この盛岡さんさ踊りを観ることは生涯ないだろう。
この街での仕事の予定が、また偶然に重なることはまずあり得ないし、街に愛着を感じ始めたとはいえ、わざわざ旅行で来ることも考えづらいからだ。
この踊っている人たちも、観ている人たちも、おそらく二度と会うことはない。
この美しいパレードを観るこも二度とない。
完全なる一期一会。
そう考えれば、考えるほど、目の前の光景が儚くも美しいものに思えてきた。
でもそれは、僕の日常のすべての瞬間に言えることだ。
いつものオフィスで仕事をしているときも、家で家族と過ごしているときも、一人でブラブラしているときも、どんなにありふれているように見える瞬間でも、実はすべては「人生で最期の瞬間」なのだ。
すべてのことには「最期」があり、僕たちはいわば「最期の連続」の中で生きている。
あらゆる人と、あらゆる景色と、あらゆる瞬間に別れを告げながら、僕たちは毎日を生きているし、人生の最期には、この世界全体に別れを告げることになる。
諸行無常。
この世のすべては、常に変化し続けていて、一つとして変わらないものなどない。決して永遠のものではなく、必ず終わりが来る。
でも、だからこそ、この変わり続ける世界で、自分自身も変えていく必要がある。
知らないことを知って、興味がなかったものにアンテナを立てて、実際の経験・体験の中で学び続ける必要がある。そして行動をしながら、幸運を呼び、自分なりの幸せをつかむ。
きっと世界とは、人生とはこんな風に成り立っているのだろう。
僕が、盛岡さんさ踊りを眺めながら、考えたことはそんなことだった。
それでは、また。
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