「ダンケルク」が戦争映画ではない可能性について

映画から学ぶ
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「ダンケルク」観ました。

小さい子どもがいる身ですので、映画館で映画を観ることはめっきり減りましたが、奥さんと子どもが実家に帰ってる日に同僚とゲリラ的に観に行くことになりました。

 

「『ダークナイト』『インセプション』『インターステラー』のクリストファー・ノーラン監督最新作!」
「戦場への没入感を味わうために、ぜひ映画館で!」
「女性も楽しめるイケメン映画!」(これは公式twitterが広報して炎上したらしいですが・・)

と、世の中の話題をかっさらっている本作ですので期待に胸を大いに膨らませて観に行きました。

でも、観終わったときの感想は「あれ?なんだろうこの違和感は?」というものでした。

 

いえ、噂どおり本当にすごい映画だったんですよ。

さすが”いまもっとも稼げる監督”の作品だけあって、映像・音楽ともに素晴らしく、上映時間の110分は一切の無駄がない構成に仕上がっていました。

「戦場への没入感」も前評判以上で、最初の銃声が館内に鳴り響いた瞬間から、僕たち観客は戦場に放り込まれた状態になります。

※一発目の銃声は本当に印象的で「あ、これはきっと恐ろしいことになるな」と予感したものです。

追い込まれた英仏両軍の兵士をたびたび敵(ドイツ軍機)が襲ってくるのですが、その度に流れる不安を駆り立てる効果音の恐ろしいことったら!

あえて難点を上げれば、物語としての展開がそれほどあるわけではないのが物足りない人がいるようです。

Yahoo!映画では、「ストーリー性がない」「これなら『プライベート・ライアン』の方が上」なんて書かれてますね。

でも本作は「戦場のリアル」を徹底的に体感する映画なので、個人的にそこは気になりませんでした。

 

では、この観終わったあとの「違和感」はいったい何だろうと考えてみました。

たどり着いたのは「もしかして『ダンケルク』って戦争映画じゃないのかもしれない」という考えです。

先ほどの「これは戦争映画ではない。戦争体験映画だ!」という意味とも少し違います。

「ダンケルク」は、もしかしたら「僕たちの精神世界」を表している映画なのではないかと思ったのです。

 

ダンケルクは「閉塞感」に満ちた作品です。

冒頭の市街地の狙撃シーン、沈没する船の中、墜落した戦闘機のコクピット・・・。

複数の登場人物の視点で、途切れることのない息苦しい場面が続きます。

また、船に乗っても沈没して海に投げ出される人、せっかく抜け出した戦場にまた戻る船に乗ってしまう人といった、逃げても逃げても抜け出せない蟻地獄的な描写も多いです。

1人1人が追い込まれる閉塞感、ダンケルクという戦場に閉じ込められた閉塞感、そして戦争という極限状態への閉塞感。

大きく3つの閉塞感の中に閉じ込められる110分間になります。

そして、この息苦しさはどこか「懐かしい」感じもするのです。

僕たちが日常的に感じる「閉塞感」に通じるところがあるからです。

人間関係に思い悩むときなんかに感じる「1人の人間としての息苦しさ」。

通勤電車や車の渋滞のときに感じる「ある種の戦場に閉じ込められたような集団としての息苦しさ」。

そして、何よりも隣国がミサイルを撃ち込んで来ても何も出来ないという、「一見平和に見えるけれど、実は変わらず戦争状態の中にいる息苦しさ」。

こうした日常的に感じる「精神的な閉塞感」を、追体験する映画になっていて、そこに「懐かしさ」というか「既視感(デジャヴュ)」を持つことになり、それが僕が感じた「違和感」に繋がったんだと思います。

 

「ダンケルク」は、大きく3つの視点から戦場を眺める映画になっていて、それによりこの作品全体の「閉塞感」を俯瞰できる構成になっています。

また、最後に「閉塞感」を打破することになるのは、「自分を危険にさらしても他者を救おうとする思い」です。

僕たちの精神世界の「閉塞感」も同じように、複眼的に眺めて俯瞰すること、他者のために何ができるかを考えることで、抜け出せるものなのかもしれません。

 

ごちゃごちゃ書きましたが「ダンケルク」はマジで名作です。ぜひこの感動を劇場で。

 

それでは、また。

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